ShanShanの備忘録

中国生活6年目で日々思うこと

羞恥心

 

衝撃だった。

 

今日もバスに乗った。いつもの見慣れた景色。今日も順調に走っていた。ただ、道が工事中のせいでいつもより振動がすさまじく、頭を背もたれに乗せたら“脳みそが揺れる”という表現がたぶん正しいと思う。しかし衝撃だったのはそのことではない。

 

いつものように鼻歌をごきげんに歌っていた時、バスがバス停に止まったので何気なく窓越しにふと外を見ると、30代くらいの一見フツウの女性が鼻をほじっていた。

 

ええ???

 

わたしの鼻歌が止まる。

 

見間違いかなと思い座り直し姿勢を正す。そしてもう一回見てみるとやっぱり間違いなく鼻をほじっている。しかも豪快に指を奥までつっこんで結構長いあいだほじっている。

なんだか見てはいけないものを見た気がして思わず目をそらした。わたしがほじっている訳ではないのにすごく恥ずかしい。

 

怖い物見たさで恐る恐るもう一度外を見たら、まだほじっていた。

しかも今度は目が合ってしまった。目が合ったのにもかかわらず彼女はわたしを見ながらほじりつづけている。

 

えっと・・バスの窓マジックミラーやったっけ?

 

いや、違う。バスの窓はマジックミラーではない。と心の中で確認する。

しかし彼女はわたしをガン見しながらあらゆる角度から鼻をほじっているのを見せてくるのである。そしてわたしは彼女のガン見に耐えられなくなって目をそらした。負けた。わたしが鼻をほじっていたわけではないのにわたしの方が恥ずかしいとはどういうことだろう。

 

彼女は恥ずかしくないのだろうか。

家に帰って来て思わず「羞恥心」という言葉を辞書で調べてしまった。

 

 

中国語には日本語で言う「優しい」にぴったりあてはまる言葉がない。疑問に思って中国語の先生に尋ねたら『中国には優しさがないから優しいという言葉も生まれない』とさらっと答えてくれたのを思い出す。

 

中国には優しさがないのかどうかは別の機会に書くとして、この原理を果てはめると「羞恥心がないから羞恥心という言葉も生まれない」=「羞恥心という言葉がなければ羞恥心という概念がない」になるなと思ったのである。

 

中国人には恥ずかしいという感情がないのではないだろうか?

ところが辞書の中に羞恥心に相当する言葉を見つけてしまった。日本語のまま「羞恥心」と訳すらしい。そして考えてみれば「恥ずかしい」という言葉もそういえば頻繁に耳にするではないか。ということは彼らには羞恥心という概念があることになる。

 

にもかかわらず彼女はわたしをガン見して鼻をほじっていたのである。

 

んー、分からない。

 

疲れた頭でいくら考えても今日の衝撃に対する答えは出ないのである。

明日元気な頭で考えても多分答えはないであろう。