中国思春期説
昨日いつもの道を歩いて帰っていたら、家の近くに見慣れない大きな建物が建っていた。
ん?こんな建物、前からあったっけ?と目を凝らして見たら自分の家だった。わたしが住んでいるマンションだった。一昨日まではなかった電飾が半日でマンション全体を覆い、煌々と光っていたのである。ところどころ光ってない子がいて電飾が直線になっていないところがさすがである。相変わらず雑だがやることが早い。
「だからそれよりも電線!」て思ったけれど(優先順位の記事参照)、大家さんが勝手にしたのか、政府がしたのか分からなかったので考えるのをやめた。
そして今日。またまたいつもの道を我が家を目指し歩いていたら、見慣れない建物が。あれ?あんなところにあんな建物あったっけ?と眺めて見てみると知っている建物だった。これまた電飾に縁どられて無理やり光らされていた。
大家の仕業ではない。街の復興の一環なのかは知らないがそんな感じだと勝手に思っている。センスのない銅像、歩道に突然現れた石造りの延々と続くベンチ、最近大きなバス停各所に整列させられているレンタル自転車たち、そして手当たり次第に付いていく電飾。
何がしたいんだろう。
何かがしたいことはすごくビシビシ伝わってくるが方向性がまったく定まっていない。
自分で書いてふと気づく。
思春期だ。そうか、この街は思春期だったんだ。パワーはあるんだけど、それをどこにどう使ったらいいか分からないのだ。これは温かく見守ってあげなければいけないのかもしれない。
そう思うと電飾もキレイに見えてくるのである。「頑張ったやん」と褒めてあげなければいけないのかもしれない。垂れ下がった電線を早くどうにかして欲しいが、思春期だとそういう地味で大事なことより華々しいことのほうを優先させてしまうのかもしれない。
よし、中国思春期説をひそかに打ち出したことだし、わたしもこの話をどこに着地させていいか方向性が定まらなくなってきたので薄目で電飾を眺めてから今日はもう寝るとする。
おやすみなさい。