うまらない隙間
人がもっているいろんな感情を喜怒哀楽ということばで表現することがある。
わたしの友人Y氏は哀がないのであるが、まあそれはいいとしよう。
先日友人と朝マックしながらどんな人がタイプかという話になった。はげ、ちび、デブの中でどれを我慢できるかという失礼な話題にまで広がったのだが、結局笑いのツボさえ同じならもうなんでもいいよね。という話にまとまった。
そうなのだ。この笑いのツボだけでいいのに、この笑いのツボこそが一番難しいところだと思うのである。
昔、金城武がコメディーはいちばん難しいといっていたらしい。金城武?と思ったが、そこは置いといて彼の意見に同感。
人を喜ばせるには、怒らせるには、悲しませるには、どうすればいいかだいたい分かるのに、人を大笑いさせるにはどうすればいいのかは分かりにくい。喜怒哀楽の楽はとんでもなくハードルの高い繊細な感情だと思う。
以前、関東に4年弱住んでいた。そこで初めて生きていて息がつまる思いを経験した。ずっとその原因が分からなかったのだが、ある日もう何日も笑ってない自分に気が付いた。みんなが笑っている時に一応笑顔にはなるんだけど、お腹が痛くなるくらい笑うということが少なかった。
笑わなきゃという必死の思いから、家族に新喜劇を録画してもらい定期的に送ってもらっては観ていた。子どもの頃毎週土曜日昼ごはんを食べながら見ていた新喜劇に少しだけ癒された気もするが、しかし、しばらくして気が付く。必要なのは新喜劇ではない。必要だったのは会話の中でのなにげない笑いなのである。みんなと笑いたいだけなのに、それだけなのに、できなかった。
ここでも外国人の友達も日本人の友達もいっぱいできて、みんなとてもいい人たちで一緒にいて勉強になるし、出会えてよかったと心から思える人たちなのだが、どうも笑いのツボの違いで苦しむことが日常茶飯事である。できることなら笑いたい。でも笑えないのだ。友達がすごく楽しそうに笑っているのにわたしの顔はいつもひきつったままである。
何が作用したらこんなに違いが出てくるものなのか。さっぱり分からない。
一緒に笑えないというのはなんとなく目に見えない隙間を作ってしまうように思う。逆に一緒にちょっとしたことで笑えるとその人との距離が一瞬で縮まる気がする。友達はさておき、結婚相手はちびでもはげでもいい、同じ場所で笑える人がいい。ただ、太っている人はやっぱり無理かもしれない。
そんなことを考えながら、「ガキ使」をひとりで夜な夜な見てはここ中国で誰も埋めてくれない隙間を埋めるのである。
なんだかまとまりのない文章になってしまったが、こうやって笑いについて必死に書いているわたしは、先にオチを言ってしまう面白くない方の大阪人である。