ShanShanの備忘録

中国生活6年目で日々思うこと

外人は外国人

 

いつの間にか「外人」という言葉は使ってはいけない言葉に降格してしまったらしい。

 

先回日本に帰国していた時、友だちとその友人何名かとごはんを食べた。自然と中国での生活の話になった時、わたしは「外人」という言葉を口にしてしまったようである。

何の話題だったのか忘れてしまったのだが、なにかおもしろい話をしようと思って話した事だけは覚えている。『それで、わたしたち外人はね』と話し出したところで友人の友人が『外国人ね!』と大きな声で遮った。

 

わたしはどっちでもよかったので『あ、そうそう、外国人。えっと、それで、わたしたち外人はね』と話を続けようとしたら、『だから外国人!外人は差別用語や!』と。

 

あ、そうなの?

 

「外人」という言葉を差別用語として使ったことがないのでとてもびっくりしてしまった。その後調べてみたら確かに差別としてとらえる人もいるということだった。放送禁止用語にもなっているようだ。

 

なるほどそうなのか。それを聞いて嫌な気持ちになる人がいるなら使わないほうがいい。

「外国人」という人を不快にしない言葉があるならそれを使おうじゃないか。

と思いそれからは「外国人」と言うようになった。友人の友人のご指摘に感謝している。

 

 

ただ、「外人」というワードに不快感を抱く人は主に他の人に「外人」と呼び掛けられることに抵抗があるようだ。ということは、スティングの「Englishman in New York」風に自分自身を指して「外人」という言葉を使ったわたしはセーフなのではないでしょうか・・・

 

そして、そのことよりもわたしが疑問に思ってしまったのは、人の話の腰を折ってまで指摘するようなことなのかなぁという点である。差別用語だと指摘されてから、わたしは何を話そうとしていたのかを忘れてしまいその話は流れてしまった。もし、「外人」という言葉は差別用語なので誰かを不快にさせないために使わない、という優しい気持ちがあるならば、わたしたちが楽しく話しているのをさえぎるという行為は、その気持ちに反するものなのではないのだろうか。

 

と思っちゃったのである。

 

 

なにか物事を正す時、そこに優しさが伴わないならバランスを失いその正しさは容易に凶器と化す。

 

[ 正しさはアクセル、優しさはハンドル ]

あれ、なんかそれらしいスローガンが出てきてしまった。

 

とにかく、気をつけます、わたしも。

と、こういう風にブログで書いている時点でわたしもハンドルを握れていないのかもしれない。