ShanShanの備忘録

中国生活6年目で日々思うこと

祖母

 

この街に引っ越してきて一か月も経っていなかったある日、母から連絡が来た。おばあちゃんが亡くなったと。

 

日本はちょうど年末であわただしい時だった。わたしは中国にいて荷物の片づけとか新しい環境に慣れることなどやらなければいけないことがいっぱいでその年は帰国しない予定だった。が、年末でバカ高いチケットの中からなんとか安いチケットを見つけバックパックを背負い帰国したのだった。今から2年前の12月29日だった。

 

韓国系の飛行機会社で帰ったのだが有名なナッツリターン事件が起きたまさにあの時期だったので飛行機はガランガラン。360度見事にだれも乗っていなかった。なんせ情報がなくナッツ事件なんて知らなかったので不思議に思いながらも快適なフライトだった。チケットが安かったのはこのせいだったのだと後で気づく。

 

無事に帰国し葬儀も終えた。100才だった。そういえば安倍晋三さんから100才の表彰状が届いていたが関心がない様子だった。そういうことに価値を見出さない姿がいつもかっこよかった。おばあちゃんの亡くなった姿を見れなかったのもあって、今でも強くてかわいいおばあちゃんしか思い出せない。ほんとうにかわいくて強い人だった。小さいころから苦労したようで学校にも行かず働いたそうだ。路端工事の仕事も何年かしたらしい。ちいさくて細い体でハンマーを振り上げていたある日、ちいさい石ころが額の真ん中にコツンとあたった。それを何かのお告げだと感じたおばあちゃんはその日のうちにその仕事をやめた。その決断力、なんか潔いなぁと思う。

9人の子を育て祖父を亡くしてからは96まで一人でくらし、畑仕事もしていた。コビトのように小さかったがほんとうにタフな人だった。

 

大阪に呼び寄せその後叔母の家に住んだ。田舎でのびのび元気に暮らしていたおばあちゃんが慣れない地で部屋にひきこもり毎日を過ごしていたのかと思うと心が痛い。時々会いに行ったけれど十分にできなかった。全然できなかった。それでも感謝の念が厚い人だった。

 

 葬儀を終えて新しい年を迎えた。おばあちゃんのおかげでほんわかまったりとした雰囲気を楽しんでいたある日、腰とお腹に激痛を感じた。そういえばこの痛み最近経験したぞと思い出していた。脂汗と吐き気を伴う痛み、すっかり忘れていたのだがつい一か月間前中国で味わっていたのだった。尋常ではない痛み、しかも二回目。これはただ事ではない。何件か病院をまわりようやく原因が判明。卵巣嚢腫だった。7~8センチにまで大きくなってしまっていたらしい。いつ破裂してもおかしくない状態だったらしく間もなく入院手術となった。すぐに中国に戻る予定だったがしばらく休養した。もし中国で破裂していたらと想像すると恐ろしい。おばあちゃんのおかげで無事に難を逃れた。

 

この時期になると彼女のキラキラした目を思い出す。

 

最期の方にはもうわたしの名前を思い出せずサザエさんと呼んでくれていたけれど(いとこは家康と呼ばれていた)そのネーミングセンスも含めすべてが大好きでした。あなたのタフな決断力のおかげで今わたしが存在します。ほんとうにありがとう。

 

いつかまた会える日にちゃんと感謝をお伝えする予定だ。

 

それまではわたしも優しくタフに生きて行こうと思う。